中国・韓国出張2009年01月-第五日目-週末旅行:世界遺産・昌徳宮(II)

(つづき)
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熙政殿(ヒジョンジョン)
当初は王の寝室だったが執務室としても使われた。ただ、建物は焼失したので1920年景福宮から王の寝殿、康寧殿(カンニョンジョン)を移設したもの。
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大造殿(テジョジョン)
王妃の寝殿。屋根に棟瓦がない。国王は龍に例えられたので「龍棟」と呼ばれる棟瓦を省いたとのこと。これも建物は焼失したので1920年景福宮から王の寝殿、交泰殿(キョテジョン)を移設したもの。
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後苑(フウォン)
ガイドによれば寝殿であっても建物と庭のエリアは区別され、王に関連した建物の近くに木が植えられることは無かったとのこと。後苑は宮殿の庭園として造られ、ここで王や王妃が余暇を楽しんだり、勉強をしたりしていた。このツアーでは芙蓉池エリアと愛蓮池の周りを散策する。
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芙蓉池(プヨンジ)
芙蓉池は天は丸く地は四角いという伝統的な宇宙観(陰陽五変説)によって作られた。四角い池の真ん中に円形の島が作られ植物が植えられている。
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宙合樓(チュハムヌ)と芙蓉亭(プヨンジョン)
池の左手に十字の形をし池に一端が突き出した芙蓉亭、右の高台に宙合樓がある。宙合樓は学問の機関が置かれ、1階は奎章閣(キョジャンギャク)という今で言う国会図書館であった。宙合樓は科挙試験を通った人が学問を納める場所。その門は魚水門と名付けられ学問に慣れ親しむと言う意味があった。残念ながら魚水門から中には入れなかった。芙蓉亭はここで学問することをお祝いをするところ。
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暎花堂(ヨンファダン)
はじめは王が風流を楽しむ場所だったが、第22代王、正祖(チョンジョ)の時代からは科挙試験の監督をする場所となった。科挙試験は横の庭、春塘台(チュンダンデ)で行われた。ここでここ以外でも見られる朝鮮固有の戸の収め方を初めて認識した。
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ここのお土産屋で休憩。壁沿いに進むと隣の昌慶宮の大温室を見ることができる。ちなみにここまで40分でトイレはここまで無い。
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不老門(プルロムン)
王の不老長寿を願う石の門。当時の王の平均年齢は40数歳であった。「私は自慢ではありませんが毎日この門を2,3回くぐります。何歳まで生きるのでしょうか」と言うガイドのジョーク。
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愛蓮池(エリョンジ)と愛蓮亭(エリンジョン)
不老門を入ると愛蓮池に出る。蓮の花は王の徳の象徴とのこと。正面に1692年建築の愛蓮亭がある
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演慶堂(ヨンキョンダン)と倚斗閤(ウィドゥハプ)
これらは純祖(スンジョ)の息子(皇太子)孝明世子(ヒョウモンセジャ、1809-1830)の時代。父純祖の徳をたたえる称号を贈った記念に1828年に建てられた民家形式の演慶堂。また、愛蓮池を眺めるように建っている倚斗閤は孝明世子が篭って勉強したところらしい。丹青の無い質素なたたずまいである。
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ここから来た山道を戻る。雪が無ければ演慶堂の中を見てから山道を西に向かい境界沿いに出口の金虎門まで行くようだ。今日は来た道を途中まで戻り、楽善齋へ。

樂善齋(ナクソンゼ)
このエリアは皇太子の宮である東宮があった場所だったが、1847年に王の居所として樂善齋が建てられた。ここは1989年に亡くなるまで元皇太子妃、李方子が暮らしていた。ここも丹青の無い質素なたたずまい。
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最後に敦化門で解散。来た道を帰ったので仁政殿など再度観覧できた。

北京の故宮に比べれば規模は小さいが、自然を生かした清清しい場所である。故宮は権力を象徴して冷たいが、昌徳宮は高度な文化と温かみを感じる。その国の大きさの違いと民族性から来るのだろうか。また、機会があったら訪れてみたい。違う季節の風景を味わってみたい。


李方子に関してWikipedia等からまとめました。コメントは控えます。

李方子(イ バンジャ、1901年11月4日 - 1989年4月30日)。旧大韓帝国の元世子(皇太子)李垠の妃。
明治34年(1901年)皇族梨本宮守正王と伊都子妃(鍋島家)の第一王女として生まれる。
皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補として名前が取り沙汰されるが、結局、従妹、良子に決まる。
学習院女子中等科在学中の14歳に李王家世子である李垠(り ウン)と婚約。大正7年(1918年)に納采の儀が行なわれ、女子学習院高等科卒業後の大正9年(1920年)4月、李垠と結婚。
李垠は朝鮮を保護国(植民地化)とした大日本帝国の元首相の伊藤博文に明治40年(当時10歳)に留学を名目に日本に連れてこられた。日本の皇族として教育し、日本の皇太子並みに扱われた。
この結婚は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」を目的とする政略結婚である。

二人の仲は睦まじかった。日本で晋と玖と二人の子を持つが晋はソウル訪問時急逝する(暗殺説もある)。

昭和20年(1945年)の終戦後は韓国の初代大統領李承晩により帰国を妨げられたが、昭和38年(1963年)、朴正熙大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たす。

昭和45年(1970年)、李垠逝去。

韓国に帰化した方子は、知的障害児、肢体不自由児の援護活動に取り組み、この功績により昭和56年(1981年)には韓国政府から「牡丹勲章」授与。また、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を勤めた。

平成元年(1989年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈。

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by AT_fushigi | 2009-01-26 16:54 | 出張・旅行 | Trackback | Comments(0)
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