中国出張2010年09月-第六日目-ちょっとお散歩「逍遥津」

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合肥でお仕事。

仕事は午後3時半過ぎに終わり、顧客との夕食までのわずかな時間を惜しんで市内散歩。
実は合肥の南に三河古鎮という2500年前の姿が残っているという古鎮があるのですが夕食までに帰ってこれないので次回に(いつか分かりませんが)。

ここは「三国志」ファン必見の合肥の戦いで有名な逍遥津へ行くことにしました。合肥の戦いのWikipediaからの抜粋は文末に。


この古戦場は「逍遥津公園」となっておりタクシーを飛ばしました。
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公園入口付近は人であふれており、なぜか同僚が石榴を買いました。
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公園入り口の門(ここは南大門)の扁額には「古逍遥津」と書かれています。
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左右の獅子の顔に愛嬌があります。
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門をくぐると水路にかかる橋がありそこにも小獅子が。
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小さな橋を渡ると案内板が。しかし、張遼像や飛騎橋などの文字が見えません。
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歩き出すと直ぐに目の前に有名な張遼像が現れる。なかなか良い顔をしています。
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実はこの像のある通りは両側が児童公園となっていて、子供で溢れ張遼が気の毒なようです。もっとも子供を黙らせる時は「遼来来(張遼が来るよ)」と言うそうだから関係ないともいえませんが。
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しばらく直進すると「飛騎橋」の太湖石の碑が突然現れます。孫権が退却時外された橋の上を飛んだというところです。渡ると短く感じますが、横から見ると数mあり躊躇したのが分かります。
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湖(池)に沿って進み渡津橋を渡り逍遥閣へ向かいます。近くに小島があって衣装塚があるが渡れない。時間があればボートで近くまで行くことができるらしい。
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飛騎橋の方に戻り墓の方へ向かう。途中に「三国歴史文化館」が有りましたが時間がなくパス。
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張遼の墓の入り口です。
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道なりに進むと塚があります。「魏」、「張(なので次は遼か)」、「墓」の文字だけ読めます。この後進むと低い円錐型のお墓があったのですが電池切れとなってしまいました。
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この後、南大門に戻り、夕食のレストランへ向かいました。小一時間の観光でした。

夕食のレストランはホテルから徒歩圏内でした。「徽粤情」と言うところで、名前から安徽と広東の料理と思われます。
パワーオフに回復したバッテリーで4枚だけ写真を撮りました。
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ホテルに戻って、ホテルの近くの酒店から白酒を皆が買ったので私も買ってみました。良く寝ることができて朝すっきり目が覚めました。
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[2010.09.12]


次へ(第七日目-仕事の後の美味しい夕食)    [目次]


「合肥の戦い」(張遼のWikipediaから抜粋)

「建安20年(215年)8月、張遼は楽進や李典らと共に合肥に駐屯していたが、孫権が十万の大軍を率いて侵攻してきた。李典と張遼は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は問わないとし、共同してこれに当たった。曹操は張魯を攻撃するため漢中に遠征していたが、護軍の薛悌により三将に文書で「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城を守れ」という指令を伝えていた。張遼らはこれに基づいて作戦を立て、楽進が薛悌と共に城を守り、張遼は李典と共に出撃して敵軍の出鼻を挫くことにした。夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛を殺して将兵に振る舞い、翌朝出撃した。

張遼は先頭に立って敵陣に突入し、敵兵を数10人殺し、2人の将校を斬り、孫権の将旗の近くまで迫ったので、驚いた孫権は戟を持って戦いつつ逃走した。張遼は孫権の軍勢が丘に逃げたのを見ると、孫権らに「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢が極めて寡兵であることを見てとり、大軍をもって何重にも囲んだが、張遼は配下の兵と共に包囲を破って脱出した。しかし、この時張遼は逃げ遅れた配下の兵士達がいることに気付いたため、引き返して包囲の中に突入、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。

この余りに苛烈な攻撃に、孫権軍はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。結局、孫権は十数日間ほど合肥城を包囲したが、落す事はできずに撤退した。

これを見た張遼は、楽進らと共に城から出て追撃した。この時、孫権は最後衛で配下の武将らと共に撤退の指揮を執っていた。退路には川が流れており、逍遥津という橋がかかっていた。この時、逍遥津の北には孫権とその近衛兵千余人と、呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧が残るのみであった。張遼は敵軍深く斬り込み、孫権軍は凌統が死にもの狂いで殿軍を務め、これに応戦した。孫権は命からがら橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されていたため、孫権は飛騎してこれを越えたと言われる。張遼らは凌統の配下の兵をほぼ撃ち破り、凌統は全身に傷を負いながらも、孫権が退却したことを知ると泳いで逃げた。

張遼は、この戦いの中で一時孫権に肉薄しながらも、孫権軍の陣容や隊列が自軍の攻撃で乱れ切っていたため、誰が孫権なのかは分からなかった。戦いの後、孫権軍の降兵から自らが目撃した「赤髭で背が高く、短足で馬を巧みに操り、騎射の上手い将軍」が孫権自身であったことを知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねたことを惜しんだ。

呉側の記録ではこの戦いで孫権麾下の陳武が戦死し、徐盛は傷を負った上で牙旗を奪われ、賀斉がようやくそれを取り返している(「陳武伝」、「賀斉伝」)。張遼はこの戦功で征東将軍に任命された。」


次へ(第七日目-仕事の後の美味しい夕食)    [目次]
by AT_fushigi | 2011-08-23 02:40 | 出張・旅行 | Trackback | Comments(0)
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