国内出張2019年11月-第三日目ー方広寺のこと、太閤塀・南大門


京都に大仏様がいらっしゃったのです。
大仏と言えば奈良東大寺です。東大寺の大仏は永禄10年(1567年)に松永久秀と三好三人衆軍の戦いの最中に焼失したのです。1585年関白となった豊臣秀吉は大仏を京都に建立することを計画します。1587年に聚楽第が完成し、1588年に大仏殿に着工します。場所は三十三間堂の北側で東からの交通の要所であった渋谷街道(現在の京都府道116号)に挟まれた広大な地区です。
その「方広寺」は大仏殿と三十三間堂、後白河天皇 法住寺陵を取り込んだ南に長い大きなお寺でした。大仏殿は1595年にほぼ完成します。最初は金銅製の予定でしたが漆膠製となりましたが、東大寺の大仏様より大きかったと言われています。しかし、翌年大地震で倒壊して、1597年秀吉が没してしまいます。
秀頼が金銅製で大仏再建を目指し、1614年ほぼ完成します。開眼供養直前で、有名な「国家安康」「君臣豊楽」が鐘楼に刻まれていた問題が起きます。そして、翌年夏の陣が起こり徳川家康により豊臣家は滅ぼされてしまいます。
1667年に地震により大仏は破損し、銅は寛永通宝に鋳造されてしまったそうです。その後、木造の仏像で再建されますが、最終的には昭和48年に焼失してしまいます。
「洛中洛外図屏風」舟木本の右隻の右下部に方広寺、大仏殿、鐘楼、三十三間堂が描かれています。また、右上部には秀吉が葬られた東山の阿弥陀ヶ峰山頂の報国廟が描かれています。
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「方広寺」大仏殿の跡地は遺構調査の後埋められた「大仏殿跡緑地公園」になっています。平成9(1997)年の発掘調査で現在の「京都国立博物館平成知新館」付近で大仏殿あとの石垣や南門の遺構が見つかりました。また、博物館西の道路沿いに石塁が残されています。現在の方広寺には問題となった鐘と鐘楼が残っています。方広寺南の秀吉を祀る報国神社は打ち捨てられ荒れるに任されていた報国廟を明治13(1880)年に社殿を造営し移したのでした。
先にも記したように三十三間堂は後白河天皇 法住寺陵とともに方広寺に取り込まれます。大仏殿から南のこの一帯までが方広寺となりその土壁(太閤塀)や南大門が現在でも残っています。
Google mapに描くとこういう感じでしょうか。この方広寺関連を全部回りたかったのですが急に東京に帰ることになったことと予定していなかった「養源院」を訪れたことで時間切れとなってしまいました。
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三十三間堂の西塀の外をぐるり回って南に出ました。「太閤塀」です。
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塀に沿って歩くと南大門に着きます。狭い道に面しており、写真を撮り難い状況でした。後で見ると門全体が上手く取れていないのでGooleのストリートビューから借りてきました。
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ここも屋根ですね。まず、門の側面。
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隅には亀がいます。
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門を中に入ると左は三十三間堂の東塀です。右手にお寺が並んでいます。後白河天皇陵を訪ねます。



by AT_fushigi | 2020-09-06 16:04 | 出張・旅行 | Comments(0)
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